ちょこちょこ…と。(2020・12・1)
- Ayako
- 2020年12月1日
- 読了時間: 3分
更新日:2020年12月1日

今日は、自然のことで思うことを書きます。
自然には空、山、海、川など、自分たちのいる世界にあるものですが、人と異なる部分は言葉を使わないということです。
私は目の前にある花が見つめられることによって、どんな感覚になっているのだろうと想像することがあります。自然には人が言葉を使うのとは違った出来ることがあるように思えます。例えば、植物は風が吹いた時に、人が風を受けた時に体で表現が出来ないような、風の感覚を受け止める微細な全体の表現ができます。散歩をした時に枝や葉の動き方を見ているとそれがよくわかります。わずかに風が吹いても人の体は感じるという程度ですが、植物は小さく細かく、その風の強さに合わせるように揺れ動いています。私は、同じ種類の花を、三年続けて同じように育てたのですが、今年が一番成長しました。水の与え方、土の栄養、日光、気温などが、年ごとに異なっているのだと思いますが、今年、一番変えたのは育てた場所でした。同じ場所で栄養を増やすことも、成長には繋がると思いますが、日々の中で、それまでより大きく成長するのを眺めた時に、これが人であったらすごい人だろうなというふうに思えました。例えば、木や鉱物など以外の植物などは、一定の時を過ぎれば、人が年を重ねるよりもずっと早くに枯れてしまいますが、人も地球の命の長さから見れば、もっと早いです。命ということで眺めれば、人も自然も重なる部分を感じます。
自然が災害を起こすことについても、私にはどこか人と重なって見えます。それは、自然が穏やかでない時、人も穏やかにいられないという状態になるという部分です。私の子ども時代には、夕立という表現の雨は降っても、ゲリラ豪雨というような表現の雨は、感じることなく過ごせていました。よく地球の温暖化が原因というふうに言われますが、それは人を守る言い方なのかもしれないと思えています。自然は何も言わなくても、人が起きている時も眠っている時も、同じ時を重ね、人が日常に行ってきた通りの現実を受け取り、受け取ったことから人へ影響与える形を作っています。環境が良いということは、自分がいるところだけが良いのでなく、空を眺めても、海を見ても、花を見つめても、良いということを言うのだろうと、私はそう感じています。社会生活の中で、目の前の仕事をこなすことに重きを置かれている方や、もう環境は崩れ始めているのだから、そういったことは理想というふうに感じるような方もおられるかもしれません。それでも、今の私たちが使う便利なものの殆どは、人に理想があったから形になっているのも現実です。
人は地球に命ある何よりも能力のある存在だから、理想を形にできたというふうに思います。きっと過去の人の理想だったことは、地球全体のことよりも、大部分は人のためだったのかなと思います。ですが、自然の環境は、時代が流れ、過去とは変わったところが多くあります。個人では、疲れたりする心を休めたりするために、穏やかな天気、緑ある風景、美しい水が流れる川を眺めることは、人生には貴重だと思えています。自然の役割は、もしかすると多くの命が住むこの世界で、人が他の命とも共存する方法を学んでゆくために、人とは話さない存在としているのかもしれない、そんなことさえ私には思えてきます。人は何のために生まれ生きているのかを想像することがあるのであれば、地球も何のために生まれ、自然もなぜ存在しているのか、同じように見つめることも大切だろうと思います。
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